ハイスクールラプソディー

伊藤理佐さん、「吉祥天女」にあこがれ描いた漫画 諏訪二葉高時代に17歳でデビュー

2019.11.14

author
矢内 裕子
Main Image

物心ついた頃から「漫画家になると思っていた」という、伊藤理佐さん。高校時代には「漫画家志望」と進路相談でも明言し、17歳でデビューを果たします。どんな高校生活だったのでしょうか。

話を伺った人

伊藤理佐さん

漫画家

(いとう・りさ)1969年生まれ。長野県原村出身。87年、月刊ASUKAに掲載された「お父さんの休日」でデビュー。2005年、『おいピータン!!』で第29回講談社漫画賞少女部門受賞。06年、『女いっぴき猫ふたり』など一連の作品で第10回手塚治虫文化賞短編賞受賞。07年、漫画家の吉田戦車さんと結婚。10年、第1子出産。最新刊『ステキな奥さん うぷぷっ 3』(朝日新聞出版)が発売中。

キラキラしてなかった高校時代

――いつ頃から、漫画家をめざそうと思っていましたか?

自分で記憶を作っているところもあるかもしれませんが、保育園の頃に、水筒に描いてあったお姫様の絵を見て、まねして描いたら上手だと褒められて、とても嬉しかったことを覚えているんですよね。そのあたりがルーツじゃないかと思います。

小学生になると本格的に漫画を読み始め、「漫画家になりたい」と思うようになりました。根拠もないのに、「漫画家になりたいし、自分はなれる」と思いこんでいたんですよ。でも当時はまだ「漫画を読むとバカになる」と言われていた時代ですから、「漫画家になりたい」と言っても、「変なことを言っているな」と笑われるような感じでした。といっても反対されたわけではなくて、賛成もされなかったのですが、自分の気持ちは揺らがないので、どんなふうに思われても気にしなかったですね。

――高校時代はどんな生徒でしたか?

少女漫画が好きでしたから、中学の美術の先生に「共学に行くと、恋愛に興味を持ちすぎてしまいそうだ」と、女子校の諏訪二葉高校を薦められたんですよね。母親にも「私立に行かせるお金はないから、進学先は県立の二葉高校しかありえない。落ちたら浪人すればいい」と言われました。私、中学2年生までは勉強は普通にできていたんですが、中学の後半から急に成績が落ちていったんですよ。二葉高校にはギリギリで入れたんだと思うんですが、真面目な進学校の中で、私は落ちこぼれで大変でした。冗談じゃなくて、学年で最下位の成績をとったり……。暗くて、地味で、全然キラキラしてなかった。

伊藤理佐さん高校時代
高校時代の伊藤さん(本人提供)

高校は入った頃は女子校だったのですが、私が高3のときに共学になって、男子が入ってきて不思議な感じでしたね。でも少しですけど、共学の雰囲気も味わえたので面白かったですね。

クラブ活動は、運動が全然駄目だったので、美術部と当時は同好会だった漫画研究会に入っていました。ただ、積極的な活動はしていませんでした。当時は『キャプテン翼』の人気がすごくて、漫研のメンバーは実際に登場人物のキャラクターを割り振って、グラウンドでサッカーをして、サッカー部に叱られるくらい盛り上がっていたんです。当時、オタクやコスプレという言葉は広まっていなかったけれど、漫研の人たちは『キャプテン翼』のオタクでコスプレイヤーだった。でも、私は少年漫画をそこまで好きじゃなかったし、あの頃の自分は少しでも違う趣味を持つ人に優しくなれなかったので、全然参加していませんでした。今にして思うと、もっとちゃんと付き合えばよかったな、とちょっと残念に思います。

漫研の人たちだけではなく、二葉の生徒はみんな頭が良くて、関心がハッキリしているオタク気質の人が多かった。それぞれが何かに熱心に打ち込んでいる雰囲気があって、自分も好きなことに集中できる良い環境でした。結果的に、私自身も学校にとても助けられたと思います。

担任の先生が「いいじゃない」

――高校時代に漫画家デビューされました。

 その頃は「漫画家になるなら17歳までにデビューしないと駄目だ」と言われていました。好きだったのは江口寿史さんや、吉田秋生さんの『吉祥天女』。漫画誌としては月刊ASUKAをずっと読んでいたので、そこでデビューしたかったんです。「17歳の誕生日が来てしまう!」と、焦って応募した短編のギャグ漫画が、幸運にも月刊ASUKAに掲載されて、デビューできました。

それまでは恋愛物の少女漫画を描いていたんですよ。お姫様抱っこのシーンがあったり、恋人が死んで形見をもらう話がすごく好きで、そんなのを描いたり。でも締め切りギリギリになってしまったので長編は無理ということになり、4ページのギャグ漫画を描いて投稿したんです。それがよかったのかもしれません。

当時で覚えているのは、あるとき、キスシーンをいろいろ描いているのが母親に見つかって、気づいたら大きく「☓」が書かれていたことです。

伊藤理佐さん2
写真/掛祥葉子(朝日新聞出版写真部)

 ――漫画家になることについて周囲の反応は?

 子どもの頃から「漫画家になりたい」と言っては笑われてきたのですが、進路相談のとき担任の先生に「漫画家になりたいんです」と言ったら「いいじゃない」と、初めて認めてもらえたんですよ。「で、どうするの? 漫画家になるためには勉強するの? しないの?」と聞かれて、考えなくちゃいけないな、と。

父親は「漫画家になりたいなんて、バカだな」と言いながら、ある日、鈴木光明先生の『少女まんが入門』を買ってきてくれました。「よくわからないけれど、やるなら頑張りなさい」という応援の仕方でしたね。

そしてデビュー作の掲載が決まったとき、母親は九州に帰省中だったんですが、「編集部から電話があった」と伝えたら、私にはクールな対応だったのに、あっという間に親戚じゅうに話が広まっていて。父はというと、デビュー作が掲載された雑誌を「一生の記念だから」と20冊、背負って帰ってきて、驚きました。

学校の先生も掲載誌を学校に持ってきて、喜んでくれましたし、漫研のメンバーや友達も「よかったね」と喜んでくれました。

――故郷の長野県原村から東京に出るのはハードルが高かったのでは?

 原村は、八ケ岳に周りを囲まれていて、「八ケ岳が地元の山」なんです。自然が豊かで、40年くらい前、高速道路を造ったときに縄文遺跡が見つかって、話題になりました。

原村は父の故郷で、私たち家族はそこで暮らしていたのですが、両親が出会ったのは東京だったんです。なので、「一度は東京に出たら? 大学に行くなら学費は出してあげる」と言われていました。私も東京に出てみたかったので、女子美術短期大学(現・女子美術大学短期大学部)に進学しました。在学中に漫画家のアシスタントも始めて、2年間でなんとか漫画で収入を得て暮らせるようになっていました。今にしてみると、両親はよく東京へ出してくれたな、と思います。

伊藤理佐さん3

長野県諏訪二葉高等学校

長野県の中部、諏訪市にある県立高校。女子教育のため、1908年に上諏訪町立諏訪高等女学校として高島尋常高等小学校に併設された。1987年からは共学となった。教育目標は「自主・努力・感謝」。

【所在地】長野県諏訪市岡村2-13-28

【URL】https://www.nagano-c.ed.jp/futaba/

Latest Articles新着記事