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安田菜津紀さん 鎌倉女学院高校 父と兄の死 「家族って?」悩んだから今がある

2019.07.18

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橋爪 玲子
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フォトジャーナリストとして活躍する安田菜津紀さんは、鎌倉女学院高校時代、夏休みにカンボジアに行ったことが今の原点になっているそうです。人生観を変えるような体験だったと言います。

話を伺った人

安田菜津紀さん

フォトジャーナリスト

(やすだ・なつき)1987年、神奈川県生まれ。鎌倉女学院高等学校、上智大学卒業。東南アジア、中東、アフリカなどで貧困や難民の問題を取材。2012年、「HIVと共に生まれる――ウガンダのエイズ孤児たち」で第8回名取洋之助写真賞を受賞。14年から高校生向けに東北地方の被災地へのスタディーツアーを開始。現在、TBSテレビ「サンデーモーニング」のコメンテーターも務める。

人の温かさに人間は救われると気づいた

――家族について悩んだ時期があるそうですね。

小学3年生のときに両親が離婚しました。私は母と妹と3人で暮らすことになり、父と兄とは別々に暮らすことになりました。中学2年生のときに、父が亡くなり、戸籍を見て、父が在日コリアン2世だったことを知りました。そして翌年、兄も他界しました。異母きょうだいだった兄と父との間には私たち姉妹とは違った空気が流れていたこと、ふたりは私のことをどう思っていたのか……。

 そのころは、「家族ってなんだろう」と悩み、すごくモヤモヤした気持ちを抱えながら毎日を過ごしていました。そんな私はまわりとの関わりを避けるかのように心に壁をつくり、友だちとも深くつきあうことができませんでした。

 高校1年生のとき、心が限界に達し、最後に父と兄のお墓参りに行き、そのままいなくなってしまおうと考えました。遠くにあるお墓にタクシーで向かい、お財布の中のお金はほとんど残りませんでした。お墓の前にしばらくいたときです。タクシーの運転手さんが戻ってきて、「そこのバス停まで送ってやる。バスだったら安く駅まで帰れるし、財布の中身も足りるだろう」と言ってくれました。驚きました。私はきっとタクシーの中でとても思いつめた顔をしていたのかもしれないですね。

 そして、運転手さんが言うとおりにバスで駅まで戻り、フラッとラーメン屋にはいりました。帰り際にカタコトの日本語を話す店主が私に「またくる、食べに」と笑顔で言うんです。その響きがすごく温かくて。そういう人の温かさに人間って救われるのではないかと、なんとなく気づいた体験でした。

安田菜津紀さん1
写真/大野洋介

「無関心」を「関心」に引き寄せる写真の力

――高校2年生のとき、人生の転機があったとか。

私が外の世界に目を向けるきっかけがありました。担任の先生がホームルームでNPO法人「国境なき子どもたち(KnK)」について紹介してくれて、その「友情のレポーター」について興味がわきました。夏休みにカンボジアの同世代の子どもたちと交流するプログラムです。先生は私が悩んでいることに気づいてくれて、1対1の場ではなかったけれども、現状以外の選択肢を与えてくれたのではないでしょうか。

私は、まったく違う価値観で生きている子どもたちと交流することで、私がずっとモヤモヤしていた「家族とは」という問いの答えがみつかるかもしれない、またお墓参りの旅のときのように、人間って悪くないかもと思わせてくれるような出会いがそこにはあるかもしれない、というすごく私的な理由で参加しました。2003年、高校2年生の夏は、私の人生のターニングポイントとなりました。

 派遣されたカンボジアでの日々は衝撃的でした。カンボジアは1991年に内戦が終結しましたが、貧しい状況が続いていました。私が交流したのは、家が貧しくて人身売買されたり、ひどい暴力を受けながら働かされたりしていて、施設に保護された同世代の子どもたちです。彼らはつらい境遇にあるにも関わらず、真っ先に家族のことを考えていました。「自分が今、施設にいるために家族は何も食べられないのかもしれない」「家族のために、早く職業訓練をしたい」と言うんです。自分以外に守りたいものがある彼らは、とても強くて優しかったです。

 それに比べて私は、家族はどうして私をもっと見てくれないんだろう、友だちはなぜもっと優しくしてくれないんだろうと、自分を守るために心に壁を築いて必死に壊れないようにしていました。私も彼らのように誰かに優しさを配れる生き方を見習いたいと強く思い、世の中の見方ががらりと変わりました。

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高校時代に訪れたカンボジアで(提供:認定NPO法人国境なき子どもたち)

 帰国後、現地の子どもたちのために何かしたいと考えました。でも私はまだ高校生。お金もないので、KnKで出会った子どもたちに毎日おなかいっぱい食べさせることもできないし、地雷でケガをしてしまった子どもたちを治療してあげることもできません。ならば「友情のレポーター」として感じてきたもの、直接もらった言葉を伝えることが唯一私にできることなんだと。「伝える」ことにエネルギーを集中し、私はあらゆる出版社や新聞社に電話をかけ、メールを送りました。「すみません、カンボジアに行ってきたんですけれど」って(笑)。

 インタビューをしてくれた新聞社や出版社などがありました。やっと伝えられたと思ったのですが、私は同年代の子たちにもっと伝えたい、と。学校で「そういえば夏休みにカンボジアにいってきてさ」と写真を見せると、普段話しかけたこともない子たちが「なにそれ?」と話しかけてくれる。なるほど写真というのは、知りたいという最初の扉をあけてくれるもので、「無関心」を「関心」に引き寄せてくれるものではないだろうか、と思いました。本格的に写真の勉強を始めたのは大学時代ですが、今の私の伝える手段である「写真」の力を感じ始めたのもこの時期だったような気がします。

――そして大学に進学しました。

大学に行きたいというよりは、勉強がしたいと思ったからです。私はすごく個人的な理由でカンボジアに行ったため、下調べが不十分だったんです。滞在中、同世代の女の子同士で恋愛の話をしていると、話の輪に入らない子がいました。実は彼女は売春を強要された過去があり、つらい経験から恋愛ができなかったのです。無知であることはときに人を傷つけることを知り、勉強不足だったと痛感させられました。

 それまではテストがあるから勉強すればいいんでしょうという感覚だったのですが、何のために学ぶのかがはっきりしました。私は、もっと知識を身につけて、誰かの心に今以上にもっと寄り添える生き方をしたい。そのために大学に行くことを決めました。

 母に経済負担をあまりかけさせないために、学生に対して経済的な支援が手厚い大学を調べ、志望校を選びました。受験勉強はとにかく英語をやりました。モチベーションとして、カンボジアに行ったときにもっと英語が話せていたらという思いがあったからです。

――お母さんは応援してくれましたか?

母はずっと私を見守ってくれました。私がモヤモヤと悩んでいたこともわかっていたと思います。ただ、母子家庭で経済的にまったく余裕がない家庭でした。母は本当に朝から晩まで私と妹のために働き詰めでした。それでもカンボジアに行きたいと言ったときは、なぜ行きたいかを説明すれば、理不尽に反対などはしませんでした。カンボジアで得たことを伝えたいと奮闘している私をそばで見ていてくれました。新聞や雑誌などに発信する場を得たときに、一番喜んでくれたのが母だったのは間違いないと思います。

できない理由より、やった先のワクワクを考えて

ーー高校時代の経験を今、どんなふうに振り返りますか?

私の今の仕事は、高校時代のカンボジアでの経験がなければなかったと思っています。それくらい強烈な経験でした。まったく知らない世界に飛び込むことは勇気のいることですし、躊躇(ちゅうちょ)して当たり前です。でも、できない理由をかき集めるよりは、どうしたらできるだろうか、やってみた先にはどんなワクワクが待っているのだろうかと考えることに力を注いだほうが次のエネルギーにつながりやすいはずです。

 高校時代にいろいろな悩みはつきものです。家族のこと、友だち関係や将来のことかもしれません。自分がダメなんだと責める必要はまったくありません。人は物語を紡ぐように生きるものだと思います。歩みを進めていく中で、つらい時期があってもそれがあったから出会えた人がいて、あの痛みがあったから共感し合える人がいる。そう振り返れる日が必ずくると私は思っています。

安田菜津紀さん2
写真/大野洋介

鎌倉女学院高等学校

1904年創立。私立鎌倉女学校が母体。48年に鎌倉女学院と改称。「鎌倉から世界に発信する」をテーマに、国際理解教育・日本伝統文化理解教育・情報教育・環境教育の4分野を軸とした中高一貫教育を実施。

【所在地】神奈川県由比ガ浜2-10-4

【URL】http://www.kamajo.ac.jp/

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